水森 英夫(ミズモリヒデオ)
Hideo Mizumori専門 | 作曲・演奏・ボーカル |
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楽器名 | ギター・ピアノ |
活動地域 | 東京都&全国 |
所属団体 | 公益社団法人日本作曲家協会(理事長) |
作品紹介 | 「箱根八里の半次郎」(氷川きよし)第42回日本レコード大賞最優秀新人賞 |
プロフィール | 「人がスターを造るのです!」 母は今日も井戸水を汲み上げて、私達7人家族の洗濯物と格闘しながら、ラジオから流れる『歌謡曲ベストテン』を聴いて「今週も三橋美智也が1位だったね…」と、まだ5歳になったばかりの私に嬉しそうに笑顔を見せてくれました。 私は母の笑顔が大好きでした。したがって三橋美智也の歌声が大好きになり、それが音楽の道へと繋がったのだと思います。 昭和38年10月、14歳中学2年生で東芝レコードからプロデビュー。高校生で、グループサウンズ“ザ・ジェノバ”メンバー、19歳で歌謡コーラスグル―プの“敏いとうとニューブルー・キャンドル”のボーカルを務め、そして22才で自作の「たった2年と2ヶ月で」をリリース、その後26才で歌手を引退しました。これが私の歌手活動の12年間の歩みです。 歌手から作曲家に華麗なる転身といきたかったのですが、世の中はそんなに甘くなく、思う様に生活ができません。その間、クラブやスナックでの弾き語り、キャバレーのショータイムへの出演、そしてスナック経営と夜の繁華街での生活が20年間続きました。 やっと日の目を見たのは、天童よしみさんの『NHK紅白歌合戦』初出場曲「酒きずな」を作らせてもらったことで、作品の発注も徐々にいただける様になり、夜のスナック経営を卒業して、作曲家として一本立ちできる様になったのは44才の春でした。 思えば14才で歌手としてデビューをし、44才でやっとこの世界で生活ができる様になるには30年の下積みが必要だったといいうことになります。演歌歌謡曲の未来ですが、厳しいことは事実です。しかし、努力次第では大きな市場になる可能性も持っていると思っています。それはスーパースターを造ることです。今までの固定観念・既成概念を、ちょっと横において考える必要があると思います。スターは天から降ってくるようなものではなく、湧いて出てくるものでもありません。人がスターを造るのです。 多くのスタッフ・関係者の協力、そして超越した努力と情熱を持った誰かがスターを造るのです。近い将来に子供達が「おじさん、こぶしがまわらないんだね。おくれてるよ…古いね…」そんな時代がやってくるかもしれません。 |
お問合せ | 日本作曲家協会 03-3585-4970(電話) 03-3585-7694(FAX) info@jacompa.or.jp |
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