プロ作曲家への道
弦 哲也
人生は出逢い


私はいつの間にか涙をポロポロ流していた。昭和40年代も終わろうとしていた頃のこと。その人こそが北島三郎さんであった。
私は昭和40年「田村進二」の芸名で歌手デビューしたものの何をやっても結果を出せない時代が長く続いていた。そんな私を「俺と一緒に旅しないか。」といって声をかけてくれたのが北島さんだった。その旅先で聞いた歌がやがて私を作曲家への道標になって現在に至っている。〝人生とは出逢い〟縁が総てという事を知り今でも私の座右の銘にしている。
その頃、私はNHK「あなたのメロディー」の裏方でアマチュアの創った沢山の作品を粗選審査の仕事を手伝っていた。そのスタッフから将棋界の内藤国雄九段に歌を作ってみないか?との声が掛かった。今まで溜まっていた歌づくりの情熱を一気にぶつけて作曲したのが「おゆき」だった。それが幸運にも大ヒット。その喜びは天にも登る程だった。その喜びを倍にしたのが、それまで生活苦のため生まれたばかりの息子を両親に預け育ててもらっていた。その息子を引き取り親子三人の生活を始めることができた事だった。その後は作曲家としての道と歌手としての道、二つの道を歩んだ時代もあった。歌手の夢を諦めきれなかったことも事実だが、作曲家として胡座をかいているより売れなくても旅ができる歌手の道を歩けるだけ歩いてみようと思った。それは出逢い、縁が欲しかったからだったと今でも思う。
作曲家協会へ入会したきっかけは先輩三木たかしさんからの推めだった。三木さんは何と偶然にも私の出身中学の先輩だった。常に私には人として作曲家としてアドバイスの声をかけて頂いた恩人の一人だ。
「縁」歌手との出逢い、プロデューサーとの出逢いから様々な作品を世に提供できたことはあの日あの時の北島三郎さんとの縁があってこそ。
作曲家協会は本年60周年。偉大な大先輩が築き上げてきた伝統を守り、会員の皆様のために何が出来るかの企画提案をし、充実した協会運営に力を注ぎたいものと思っております。
私と同じ様に作曲家として夢の花を開かせようとしている方々に進言したいのは決して諦めない事、夢を見続ける事、出逢いを求めて旅をする事。
日本人の心の歌づくりを絶やさないために。
(2017/10/1 掲載)
岡 千秋
歌い手の個性を活かしてあげたい!


浪曲師の先生方のカバン持ち、錦糸町のキャバレーのボーイなどで働きながら神田の牧野昭一先生の歌謡学院で学び、ピアノが弾けたので先生の代わりも1年勤めました。しかし、「君は歌手としての才能はないね!」と冷たく言われた一言でさすがに「これで人生終わりだな…」と思いました。
しかしそのころ「だったら、作曲でもしたら?」とお声をかけて下さった作詩家の久仁京介先生との出会いで大きく人生は変わりました。
そこから、昼間は新宿の札幌ラーメン屋で働きながら、出前持ち先の日にジャズシンガーのママさんが経営するバーで「ピアノを弾く」仕事にありつき、そこでフランク永井さんや、マーサ三宅さんなどメジャーな大先輩からいろんなことを教わりながら10年間お世話になりました。

まず私はその個性に惚れ込むことから始まります。その個性を如何に活かすかが一番大切なところです。
その個性を重視という意味では忘れられない話があります。都はるみさんが新宿コマ劇場公演の際に、たまたま私の弾き語りを聴きに来られたんです。そして「デュエットしたい!」という話から生まれたのが「浪花恋しぐれ」だったのです。最初は歌手は諦めたのでお断りすると、「アルバムだったらいいじゃない!」とお話はどんどん進みました。この声に、そう個性にはるみさんが惚れて下さったんですね。演歌も日本のブルースみたいなものだからぴったりの声だったんだと思いました。
作曲家を目指す皆さんにはそれぞれのメロディーがあり、ブランドがあります。他人の物真似では仕事になりえません。みなさん苦労して作り上げてきていますので、気負うことなくご自分のメロディーを作り続けることだと思います。 ITや技術革新が進む中、皆さんうわべしか感じなくなってきているような気がします。いくら便利になり、楽しければいいと思われがちですが、そうではないと思います。あらためて、日本語の素晴らしさや、日本のメロディーも大事にしてほしいですね。作家としては、頂いた仕事に命を刻んで完璧に答えていく、それしかないと言い聞かせています。
(2017/10/1 掲載)
聖川 湧
偶然とは一言で言えないめぐり逢い!


確か小学校5年生だったと思いますが、今もその横笛は持っています。時々引っ張り出して昔を懐かしんでいますが、故郷にはもう父母も無く実家もありません。一人っ子だった私に音楽の神様が味方になってくれたのはどうもその頃だったのかも知れません。
横笛が管楽器アルトサックスに変わり、ジャズ演奏家に。そして、歌手に・・・。
昭和 40年 12月ビクターからデビューしたのは 20歳です。「赤いエレキ」佐伯孝夫作詞・小畑実作曲でした。
当時、エレキブーム真っ只中でヒットこそなりませんでしたがお世話になった方々がビクターレコードの社員でしたので運が開けていったと思います。
そして三年後の昭和43年、自作自演の「金沢の女」。この曲のキャンペーンで金沢の山蓄レコード店社長、八日市屋宏さんに出会いました。そのお店で野路由紀子と出会ったのですから、これも又偶然とは一言で言えません。私の作曲家デビュー「私が生まれて育った所」を歌ってくれたのが野路由紀子ですから今想えば、必然的な緑があったとしか言いようがありません。
一方、時代はジャズから歌謡曲、GS、ニューミュージック、フォーク、演歌と変化していく将来を感じ、作曲の勉強を怠りませんでした。ジャズバンドマン、歌手時代に書き留めていた作品が38曲。その中1曲に「私が生まれて育った所」があったのです。昭和45年作曲家デビューです。
そしてRCAレコードディレクター榎本嚢さんとの出会いにもなり、バーニングプロの社長・周防郁夫氏とも緑が出来、多数の音楽業界の方々に出会えました。苦労といえば「夫婦舟」が発売になる、昭和54年頃かな?昭和45年「私が生まれて育った所」から54年までの10年近く依頼された仕事は3、4曲その間ピアノ弾き語りの仕事で食い繋いでいました。でも、書き溜めた曲は150曲余り。後の私の大きな力になってくれたのです。
世はカラオケ時代に移行して行く中、香西かおり、服部浩子ら弟子達がオール女性で賑やかな演歌道場があった渋谷の事務所に各レコードメーカーディレクター諸氏が出入りしてくれました。
清水道夫氏、千賀奏洋氏、JCM岡賢一氏、坂本敏夫氏、古川健二氏著作家はメーカーディレクターの中で育ちました。今も昔も同じです。
現在私は作曲協会の常務理事で日本音楽著作家連合副会長をしていますが、これからの作曲家を目指す全国の協会員の皆さんと手を携えて頑張って参ります。
・日本著作家連合副会長
・日本音楽著作権協会( JASRAC)監事
・法務省 東京都大田区保護司
(2017/10/1 掲載)
水森 英夫
人がスターを造るのです。!


私は母の笑顔が大好きでした。したがって三橋美智也の歌声が大好きになり、それが音楽の道へと繋がったのだと思います。
昭和38年10月、14歳中学2年生で東芝レコードからプロデビュー。
高校生で、グループサウンズ“ザ・ジェノバ”メンバー、19歳で歌謡コーラスグル―プの“敏いとうとニューブルー・キャンドル”のボーカルを務め、そして22才で自作の「たった2年と2ヶ月で」をリリース、その後26才で歌手を引退しました。これが私の歌手活動の12年間の歩みです。
歌手から作曲家に華麗なる転身といきたかったのですが、世の中はそんなに甘くなく、思う様に生活ができません。その間、クラブやスナックでの弾き語り、キャバレーのショータイムへの出演、そしてスナック経営と夜の繁華街での生活が20年間続きました。

思えば14才で歌手としてデビューをし、44才でやっとこの世界で生活ができる様になるには30年の下積みが必要だったといいうことになります。
演歌歌謡曲の未来ですが、厳しいことは事実です。しかし、努力次第では大きな市場になる可能性も持っていると思っています。それはスーパースターを造ることです。今までの固定観念・既成概念を、ちょっと横において考える必要があると思います。スターは天から降ってくるようなものではなく、湧いて出てくるものでもありません。人がスターを造るのです。
多くのスタッフ・関係者の協力、そして超越した努力と情熱を持った誰かがスターを造るのです。
近い将来に子供達が「おじさん、こぶしがまわらないんだね。おくれてるよ…古いね…」そんな時代がやってくるかもしれません。
(2017/10/1 掲載)
四方 章人
素晴らしい師匠とのめぐり逢い!


故郷・岩手の映画館で、エルヴイス・プレスリーを観たときの衝撃は、今でも忘れません。
優しくギターで語り掛け、画面一杯に広がるプレスリーの笑顔と歌声がとても魅力的で、少年の私はすっかり音楽のとりこになりました。
何とか音楽で身を立てたいと思い、上京はしたものの音楽業界にコネもツテも無く、そんな時に、ビクターレコードの歌手オーディションに応募して合格しました。
レコード会社の制作者から猪俣公章先生の所へレッスンに行くように言われ、そのまま門下生として二年間の居候生活が始まることとなりました。
先生の身の回りのお世話をしながら、夕方になるとレコード会社の制作者が集り、毎夜酒盛りがはじまるのでその準備で大忙しでした。
徳利に熱燗というシャレたものじゃ無く、一升瓶の酒をヤカンで沸かして茶碗酒。歌手になる為に先生の所へレッスンに行ったはずが、先生の楽譜を整理しながら自分でも曲作りを始めていました。
一応先生の作品で歌手デビューをしたもののまったく売れず、故、山口洋子先生の紹介で、夜は銀座の「クラブ中鉢」で弾き語りをすることになりました。昼はギターをかかえてレコード会社に作品を売り込む毎日でした。
昭和48年に初めて三善英史に作った「遠い灯り」がヒットし、昭和55年に作詞作曲の「おれでよければ」が田辺靖雄、アローナイツ他、4名の競作に成り銀座の有線放送では3ケ月間一位の快挙となりました。
そんなある日、「中鉢」の常連だった作詩家の巨匠藤田まさと先生から、弾き語りをしている私に紙ナプキンが手渡され、「四方ちゃん、これに曲つけといて」それには「浪花節だよ人生は」の一番の詩が書いてありました。
昭和59年に発売になった木村友衛の「浪花節だよ人生」は、細川だかし、水前寺清子他14名の競作となりお影様でミリオンセラーとなりました。
私も来年で生活50年。色々な人との出会いがありましたが、猪俣先生は、バカヤロウが口癖でしたが、心の暖かい思いやりのある兄貴のような師匠でした。
藤田先生からは、何かと人生の道しるべになるような言葉を頂き、父のような尊敬すべき師匠でした。
お二人の素晴らしい師匠にめぐり会い、現在の私があるのです。心から感謝、感謝です。
(社)日本音楽著作権協会理事
(一般社)日本音楽作家団体協議会常任理事
日本音楽著作家連合会長
(2017/10/1 掲載)
大谷 明裕
出会いに感謝して!


そのころ私は、なかなか思う作品が書けなくて「もう作曲家としてやっていくのはあきらめようか」と思うほど苦しんでいましたが、当時、編曲や理論のご指導を頂いていた池多孝春先生からは「そんなに構えずに、自分らしいものを書けばいいんだよ。評価は人がしてくれるんだから!」と励まされながら、なんとか頑張って勉強していました。

「冬木立」との出会いはそんなタイミングだったのです。出来上がった曲を池多先生に聴いてもらったら、「これは凄くいいよ!すぐにでもどこかのディレクターに聴いてもらえばいい!」と。
早速、徳間ジャパンンの長谷川喜一ディレクターを紹介いただき、聴いてもらったら即採用、そして南一誠さん(ミノルフォン)の歌唱で昭和59年発売となったのです。
作詩の志名亮さんとは「こんなに早くレコーディングが決まることもあるんですね!?」と驚いたものでした。長谷川ディレクターからは「こういう曲が書けるんだから、辞めるなんて言わずにがんばれ!」と発破をかけていただいたのも忘れられない思い出です。
その後「冬木立」はラテングループ・アリーバ(キャニオン)も発売となりました。決して大ヒット曲とはなりませんでしたが、私の大谷明裕としての出発点であり、私が今曲がりなりにも作曲家としていられるのは、この「冬木立」との出会いそして池多先生、長谷川ディレクターのお蔭と感謝しています
(2017/10/1 掲載)
大山 高輝
北島三郎先輩との出会い


人生…あっという間ですね。
16歳で日本コロムビアというレコード会社にご縁が出来、地元愛知県から上京して歌を聴いていただきました。そして、同社の方に船村徹先生をご紹介いただき、入門をお願いいたしました。しかし、「高校を卒業してから来なさい」と指導をされました。そして高校を終え、19歳でもう一度門を叩き、船村先生門下生となる許可をいただきました。
そうして日々、研鑽を積み重ねる中、同門同期生であり、現在大スターとして活躍し、歌の神様と心底尊敬をしています「北島三郎」兄貴と今でも信じられないような出逢いとなりました。言葉に尽くせないほどたくさんの感謝の気持ちを抱いています。
北島三郎さんは、この大山を弟分のように面倒を見てくれました。澁谷の道玄坂で夜、街のギターを流していた北島さんが、大山に流しを仕込んでくれました。それもつかの間、北島さんは、「ブンチャカ節」「なみだ船」の大ヒット歌手となりました。
ひとりになった大山は、新宿で音楽の勉強をしながら流しをしていた友人を頼り、新宿歌舞伎町流しとして移りました。

2016年日本作曲家協会功労賞受賞
そしてはや50数年のお付き合いとなりました。
長々と自慢話を書きましたが、今後も作曲家協会の会員として作曲活動に邁進し、1曲でも多くの作品を発表できますように頑張りたく思います。
皆様のご指導をよろしくお願いいたします。
(2017/10/1 掲載)
蘭 一二三
スナック「レモン」での出会い!


ギターもピアノも弾けない私はその時「あの先生に習って将来、作曲家になろう」と決めた。その先生は当時毎月100 曲以上の編曲の依頼があり超多忙にも関わらず私にスコアの書き方やオーケストラの事など何でも教えて下さった。

夜はナイトクラブでピアノやエレクトーンを弾きながら昼は編曲家の先生に教えて頂いたり、いろんな音楽を聴いて勉強しまくった。
24 歳の時、テレビ朝日の幼児番組「とびだせパンポロリン」のエンディング曲「宇宙ロックNo1」の編曲をさせて頂いた。約30 人のスタジオミュージシャンを前にレコーディングの指揮をした時は胸がドキドキして何が何だか分からない内に終わっていた。その歌が毎日テレビで流れ私の名前がテロップで流れた。田舎の父はその番組が始まる時間に親戚や友達の家に行き私の名前を見て喜んでいたらしい。
32 歳の時に「泣いて片想い」という作曲をした。その後、有名歌手のアルバムの中の1曲やシングルB 面は簡単に決まったがシングルA 面がなかなか決まらず、音楽を知らないディレクターに頭を下げて売り込むのが嫌になったていた。
しかし暫くして、金田たつえの「風の追分みなと町」がシングルA 面で発売されヒット曲になった。その後は自分で歌の上手い人を見つけて、プロデュースをして全曲作曲と編曲をして今に至っている。
通信カラオケにも私の作曲した作品が100 曲以上配信され、よく頑張ったと思っている。白金台のレモンで出会った編曲家の先生の自慢は作編曲家として今でも頑張っている弟の馬飼野康二さん。そして時々私の事も褒めて下さる事がある。また故郷で“お好み焼き店” を経営する同級生の植田喜久雄は私の事を「作曲家の蘭一二三」と嬉しそうに皆に自慢している。頑張って良かった。
(2017/10/1 掲載)